(8)アッティラと、ノリオ。

高校は京都成章高校という男子校だった。
男子校を選んで正解だった。なぜなら、男子校なら女子に気兼ねせず授業中トイレに行けるからだ。ぼくは腸が異常に弱く、ある種の閉所恐怖症もあいまって授業中に尋常じゃないくらいトイレに行きたくなる体質だった。
ぼくと同じクラスに、ぼくと同じくらい腸の弱い生徒、黒木くんがいた。
ある時、世界史の授業で「フン族」の王、アッティラのことを習った。ぼくは冗談でうんこ(フン)ばっかり行ってる黒木くんに「アッティラ」と言うあだ名を先手を打ってつけてみた。黒木くんは「おい!郷太っ!おまえもたいがいアッティラちゃうんかー!」などと怒っていたが、ぼくがしつこく言うので黒木くんが我がクラスの覇王「アッティラ」にめでたく就任した。
高校ではブラスバンド部に入り、パーカッションを担当した。さすがにサッカー部はもうやめた。ブラスバンド部には、「ドラム・セットを自由に叩ける」という、その条件に惹かれて入った。
ブラスバンド自体は規則だらけの音楽で、それほど好きではなかった。ただ、この経験で、音楽がたくさんの楽器の積み重なり(音の層)によって成り立っていることを体感できた。それに加えて管楽器それぞれの特性を学ぶことが出来たことは、後の作曲やアレンジの仕事にも役立っていると思う。
ぼくは調子乗りで、目立ちたがりだったので、高校が参加した京都市の発表会などでは、毎回「ブラスバンドの発表会」の作法を逸脱したアグレッシヴなノリ方で「くるくる回って」叩いていた。
すると、ぼくの名前を知らない他校の男子生徒達からは「ノリオがまたノッてるで」と、「ノリオ」というあだ名で呼ばれていたことにしばらくして気づいた。恥ずかしい思い出だが、小松はこんなあだ名でぼくが(陰で)呼ばれていたことがツボなようで誰かと飲むとよくその話をする(笑)。
(9)アホがペンペン、アホがほがらか・・・。

クラシック的な音楽はあまり好きではなかったが、「ウェストサイド・ストーリー」などのミュージカル音楽や、ガーシュインの〈ラプソディ・イン・ブルー〉を演奏するのは大好きだった。
この〈ラプソディ・イン・ブルー〉。何度聴いたかわからないくらいだ。この曲の1分20秒くらいから、最初ピアノで登場し、何度も繰り返されるメイン・テーマの部分が「アホがペンペン、アホがほがらか、アホがペンペンペン〜」と聴こえて、良く歌詞をつけてその場所にくると歌っていた。みんなもウケていた。この頃、フレッド・アステアや、ジーン・ケリーなどの出演するミュージカル映画をまとめた「ザッツ・エンターテイメント」という映画を西田先生というピアノが巧い音楽の先生に見せてもらい、彼らにハマったことは衝撃的だった。ずっと好きだったマイケル・ジャクソンのルーツが彼らにあることを身をもって実感できた。
高校一年生の夏休みに一ヶ月イギリスに留学した。このときもロンドンでたくさんの音楽を仕入れて帰った。
高校二年くらいになると、空前のバンド・ブームが訪れた。周りの友達もどんどん音楽にハマりだし、いろんなバンドを薦められた。その中で、ボウイ、ユニコーン、RCサクセション、BUCK-TICK、GO-BANG'S、ストリート・スライダースなどは好きになった。森若さんの歌詞を尊敬していた。京都に来たRCサクセション、GO-BANG'Sのライヴを観たのは今も自慢だ。
ただ本当に好きなのは、今まで書いてきたようにジャクソンズ、プリンス、ビートルズ、ポリス、スティーヴィー・ワンダー、ニュー・エディション、スクリッティ・ポリッティ、ジョージ・マイケル・・・、そういった音楽だった。でも、そんなこと言っても当時の京都の高校生の中で、なかなかそういった方向性のバンドは組めなかった。他のメンバーが好きな日本のバンドの曲を数曲やれば、ぼくの好きな曲、そしてぼく自身のオリジナル曲もバンドでとりあげてもらえた。なので、ひとつのバンドなのに音楽の方向性が曲によってまったく違った。たとえば、一曲目はボウイ、二曲目はジュンスカ、三曲目はレッド・ツェッペリン、四曲目はローリング・ストーンズ、五曲目はぼくのオリジナル、という感じ。とはいえ、ぼくらだけでなく、そういうちぐはぐなバンドが高校生の頃は多かった。
(9)反逆者

最初に組んだバンドは「THE REBEL」と言う名前だった。ぼくが当時大好きだったデヴィッド・ボウイの〈REBEL REBEL〉という曲からつけた。ぼくがドラム、ギターはセックス・ピストルズが大好きな親友、藤原愛純(なるずみ)くん、ベースは現在新聞記者になった坂井くん。
笑ってしまうが「THE REBEL」とは、「反逆者」という意味だ。ぼくは勉強もはっきり言ってかなり出来たし、タバコも、喧嘩もないし、「不良」の仲間は地元にいたが高校で離れて疎遠になっていたし、親はふたりとも教師だし、ま、しいて「反逆」していたと言えば、授業中異常にトイレにいっていたことくらいだった・・・。
デヴィッド・ボウイと言えば、大学で小松と会って、はじめてちゃんとカヴァーしたのはデヴィッド・ボウイの「チェンジズ」だった。あとアイズレー・ブラザーズの「ハーヴェスト・フォー・ザ・ワールド」(ザ・パワー・ステーション版)。そのときのベースは千ヶ崎だった。
ちなみに、小松に会ったときからドラムの上手さと、日本人のドラマーに珍しく背が高いスポーツマンなこと、ポリスのスチュワート・コープランドやシックやザ・パワー・ステーションのトニー・トンプソンのように音がドカドカいうダイナミックところは大好きだった。
そしてなにより大学一年で会った千ヶ崎(当時からヒゲと眼鏡)のベースのファンキーさには驚愕したと同時に、「これでついにワム!みたいな音楽が出来る!」と感激してしまった。とはいえ、あらゆるセッションやバンドからひっぱりだこだった千ヶ崎が大学時代に懇願してもなかなかぼくと一緒に演奏してくれなかったことをぼくは今でも僻んでいて、ノーナがデビューしてからプロのベーシストとして活躍することになった千ヶ崎にことあるごとに嫌みを言い続けている(笑)。
そうなのだ。だいたい、ぼくのやりたいような音楽は高校生には演奏も難しすぎた。自分も経験不足で伝えられなかった。それだけでなく、ぼくは高校生の一時期、アイドル・グループ「CoCo」に熱中し、彼女たちの音楽のファンにもなってしまった。大阪にコンサートを観に行ったりした。パブリック・エナミーの〈ファイト・ザ・パワー〉と、CoCoの〈はんぶん不思議〉を交互に聴く、という今で言う「申し訳」的な趣味は、気持ち悪がられ、過激なヒップ・ホップとアイドルの音楽を一緒のレヴェルで語るなど気でも狂ったのか、と周囲には理解されなかった。
アイドル・ソングは昔から好きだった。特に、〈ABC〉までの少年隊や、CHAGE&飛鳥さんがソングライトした光GENJIのファースト・アルバム、そしていつの時代も松田聖子さんはずっと好きだった。その代わり、いわゆる日本の形骸的な「ロック・バンド」はほとんど好きではなかった。
高校時代と言えばニュー・エディションから派生したボビー・ブラウン、ベル・ビヴ・デヴォー、そしてもちろんマイケルのアルバム《デンジャラス》などニュー・ジャック・スウィングと呼ばれる音楽に夢中になったことも書き忘れてはならない。その中でも最も愛している曲がニュー・エディションのリード・ヴォーカリスト、ラルフ・トレスヴァントの〈センシティヴィティ〉だった。
京都で仲の良いバンド仲間はいたが、あきらかに根っこの考え方は違っていた。人間的には大好きな仲間たちだったし、日々の生活やギャグの感覚的には中学時代に比べても楽しかったけれど肝心の音楽の趣味はやはり合わなかった。
ということで多重録音の出来るMTR(マルチ・トラック・レコーダー)に向かってオリジナルの曲を作ることにどんどん没頭した。高校生の頃には、マイク、エレキ・ギター、アコースティック・ギター、ベース、ドラムマシンなどを買いそろえ、一通り演奏できるようになっていた。
ある種の引きこもりのようにデモを作り続けていたので、オリジナルは増えた。はじめてCDを自主制作したのも高校時代だった。CDをマスターにカセットにダビングし、ていねいにカセット・レーベルを作り仲間に配った。京都時代の友達は今も大切に持ってくれている。ちなみにその最初のアルバムは「SPIRITUALITY(こころの唄)」というタイトルだが、気取った着眼点が高校生的で恥ずかしい(苦笑)。
十代のぼくの京都でのフラストレーションは充満していた。どうしても大学で東京に行きたかった。東京に行けば、趣味が合うやつがいるんではないか、バンドが組めるんじゃないか、そんな風にずっと思って悶々としていた。
音楽と私、「Music & Me」。
(続く)

